思いつくままに

その日の出来事や回想を綴ります

苦しみにあったことは

今日の通読は士師記7章とイザヤ38章。


神は、民が神に向かって自らを誇ることがないよう、少人数を選んで敵と戦わせた。
高慢は神が最も嫌われる罪だと聞いた。何をするにしても、それができたとしても、自分の力でできたなどとうぬぼれてはならない。私に命を与え、すべての力、能力を与えてくださっているのは神様だから。すべての栄光は主に帰せよう。


イザヤを1章から読んでいてもほとんどわからないのでくじけそうになりながら、こんなことで通読しても果たして意味があるのかと思いながらも祈りつつ今日は38章を読んだが、ヒゼキヤの話は好きだ。神はヒゼキヤの必死の祈りに応えてくださり、死ぬのを15年先まで延ばしてくださった。聞き入れられる祈りにも、すぐ聞かれるものから相当の年月を要するものまである。だけど神様は御自身が「今が最善の時」と思われる時に、かなえてくださる。私には果てしなく長く思われても。御心にかなう祈りができるように御心が何であるかを少しでもわかるために、みことばをよく読むことが必要になる。


ヒゼキヤの病気が治った後に書き記した言葉の中に(17節)「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、/ わが幸福のためであった。/ あなたはわが命を引きとめて、/ 滅びの穴をまぬかれさせられた。/ これは、あなたがわが罪をことごとく、/ あなたの後に捨てられたからである。」とある。
そうなんだよな、神様が私に与えらえる苦しみにはいつも意味がある。
ダビデも「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。/ これによってわたしはあなたのおきてを / 学ぶことができました。」(詩篇119:71)と言っている。


二人の言葉を合わせると、なるほど私は苦しみにあったから初めて神様に助けを求め、神を知るためにそのおきてを学び、おきてに従えば幸せになれることを知ったが、神のおきてに100%従うなんて罪深い人間には無理。だからこそイエスさまの十字架が必要で、イエスさまの十字架は私の最大の問題、つまり罪の問題を解決してくださった。私はそれを信じて救われた。苦しみにあわなかったら神様に助けを求めることなどしなかっただろうし、救われることもなかったという話。そのことがわかったから苦しみにあわせてくださった神様に心から感謝することができる。すべての人が救われることを神様は望んでおられる。
どんな苦しみも最終的にはその意味が明らかにされることを信じたい。
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(ヨハネの黙示録21:4,5)
もうしばらく辛抱すればそのような御国が来ることを信じて希望を持って生きていきたい。