思いつくままに

その日の出来事や回想を綴ります

母の日

今日は実家の母と私のスマホをキャリア変更するために
一緒に携帯ショップに行った。
手続きが終わったらお昼前になったので、
どこかで食べようということになったのだが
私が最初に提案した店は母が気に入らなかった。
母の日だからおごってあげようとは思っていたけど、
特にいいお店とか何も決めてなかった。
私は大体、一般的な人達と比べると、食べるものにこだわりがなさすぎるようだ。
SNSではおいしいものを食べた友達が写真をアップしていることが結構ある。
大抵の人はそういう話題が好きだ。
私も、おいしいものが嫌いなわけではない。
おいしいものを食べたら、ああ、おいしいなとちゃんと感じる(笑)
でもはっきり言って胃が満たされたら何でもいいという感覚がある。
私が食べることにこだわらなくなった原因の一つは、
子供の頃の経験によるところが大きいと思う。
小学6年生のクリスマスの夜、
父がせっかくクリスマスだから聖書を読もうと言って、
食事の前に山上の垂訓の一部を読んでくれた。
クリスマスなのに、イエスの降誕の箇所ではなく、山上の垂訓だった。
マタイによる福音書5章から7章にわたっての山上の垂訓のうちのごく一部だ。
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
(マタイによる福音書6:25-34)
当時、父はクリスチャンだったわけではなかったが、
聖書を知っておく必要があったようで、時々読んでいたようだった。
素直な私はこの言葉を聞いた時、子供心に
(食べ物のことをあれこれ考えるのはよくないんだな)と感じたようだった。
本当はそういう意味ではないと思うのだが・・・。
ただ、子供の頃に植え付けられたことって結構その後も引きずるものだと思う。
そんなわけで私は食べることに全くこだわりのない人間になってしまった。
もう一つ、私が食べることに遠慮するようになった理由は、
これも子供の頃の影響だ。
たとえば1枚の大きなパンケーキを家族4人で切り分けて食べる時、
母はまずいちばん大きな一切れを父に、
そして次に大きなのを私に、その次が弟、
そしていちばん小さな一切れは母、というふうに配った。
私はなぜ母が大人なのに私たち子供より小さいのを食べるのか、
尋ねることもしなかったのだが、
それが母親の愛情だったんだと今ならわかる。
そんな母の影響もあったのか、
私たちきょうだいは食べ物のことで喧嘩したことは一度もなかったし、
きょうだい喧嘩そのものをした記憶がない。
人間だから、当然空腹になったら何か食べたいとは思うし、
今日はどうしてもあれが食べたいなと無性に感じることもある。
それでもほかの人たちに比べたら全くこだわりがないと言っても過言ではないと思う。


話が長くなってしまったが、そういうわけで、外食もどこで何が食べたいというのが、
特にコロナ禍で長い間そういうことから遠ざかっていたせいもあり、思いつかなかった。
結局、某ホテルのレストランに行くことになった。
ホテルのレストランといってもリーズナブルで、
おいしかったので母は満足してくれたようだった。
携帯ショップで母は気になっていた古い携帯2個も初期化してもらい
引き取ってもらったので、そのことも併せて
「今日はいい母の日だった」と言ってくれた。
親不孝者の私だが、年老いた母にあと何度、
こうやって母の日に何かしてあげられるのかなと考えると胸が痛くなる。
誕生日とか、母の日に、もう物は何もいらないと言われている。
来年また記念日を迎えられたら、ちゃんとおいしいものを考えてあげようと反省した。


ちなみに、「まず神の国と神の義とを求めなさい。」という言葉は
当時難しくてよくわからなかったのだが、
要するに神様がこうしなさいと言われるとおりに生きなさい、
そうすれば幸せになれるからというふうに今は解釈しているし、
実際そのとおりだと思っている。
本当に幸せな生き方はお金や才能で買うことはできないが、
聖書にすべて書かれているので神様に感謝している。
明日からまた仕事が始まる。
今日一日を無事過ごせたことを感謝して、また頑張ろう。